このブログは快快 / FAIFAIメンバーが週1ペースでお送りしてます。

2017年3月28日火曜日

蟹と歩く “Walking with Cancers”


悪魔のしるし「蟹と歩く」“Walking with Cancers” が、26(日)に無事に楽日を迎えました。
今回、同行できて本当に良かった。
本当に良かった。

https://walkingwithcancers.tumblr.co




「蟹と歩く」って何?みたいな人もこれを読むことがあるだろうけど、そこは配慮せずに書きます。 今、周りの人と話したい気持ちはすごくあるんだけど、こうやってブログに(ネットに)書くとなるとなかなか筆が進まないなあって思いました。これはなぜだろう。

 昨日の朝は、同行者の数人と危口さんのご実家に最後に挨拶とご焼香に行って、倉敷から、僕の実家がある掛川に寄っています。

 危口さんが亡くなる数日前から昨日の朝までは、ずっと人と一緒にいて作品のことを考えていたから、何とか面白くしたい、語弊があるかもだけど、しんみりせず危口さんの死を演劇の中ではギャグとして扱いたいみたいな気持ちがあったので、なるべくあっけらかんと明るく振舞っていたけれども、というか自分がそう振舞っているつもりもなく、ただドライな人間なんだと思っていたけど、周りにいた人(ご家族、友人、仲間とか)と密に時間を過ごすことや、倉敷という町やご実家とか危口さんが好きだった美術館でやることとか、残した作品やインタビューの記事や言葉とか、ギターとか、本とか、まあ二週間危口さんを浴び続けて危口さんのことを知れば知るほど、どんどん危口さんのことが好きになってしまい、終わってから同行者と離れて、話す人がいなくなり、寂しい気持ちになっています。
 はっきり言えば、危口さんのことは大好きだったけど、今思えば当初はそんなに思い入れはなかったんだと思う。僕のドライレベルに好きレベルが達してなかったのか?そしてそれが倉敷にいる間に達したのか?僕のそんなこと知ったこっちゃないか。

 ドライで思い出したけれど、危口さんの最後の疒日記の潤いと乾きと死の話がおもしろかった。https://note.mu/kigch_akuma/n/n57a898e01516

 危口さんと知り合ったのは、悪魔のしるしのプロデュースしてた金森さんに教えてもらって2008年の「注文の夥しい料理店」を観に行って、「なんで危口くんはそんなに照れた感じで演技するの?もっと素直にやった方がいいと思う。」って、ほんと偉そうに五反田ソニックの前で話したのが最初だったと思う。そしてこの絵は、危口さんの父、敬三さんのものだと昨日知った。



 そこから、「快快のゴリラ」の時、なんか裸に白い布巻いてギリシャっぽい感じでモデルやってもらった気がするのと(これはその時の控え室の写真だろうけど、やっていたことと写真が記憶で繋がらない)



「SHIBAHAMA」で百人斬りやってもらったり、


餃子パーティーしたり、バーベキューしたり、演劇でも、プライベートでも色々あったと思うんだけど、唯一覚えてる危口さんの言葉が、

俺が家の前の道路の掃除やゴミ捨て場を掃除することをもっと評価されてもいいはずだみたいなことを熱く語っていたら、

「現代人(こーじくん)は見返りをすぐに求めすぎ、商店街とか自分で商売をしている人は、見返りというかそういうものは子や孫の代に帰って来ればって感じだと思う。」

(名言みたいにこのエピソードを同行者に語ったら「意外に普通」と言われた)、近所のケーキ屋のおばあちゃんがケーキを買うたびにサービスでいつもケーキを一つ付けてくれて「どんな感じでやってるんですか?」と聞いたら「今は息子の代がメインで家族でやっています。」て言ってたのを思い出して、なるほど!ってなったことです。
今考えれば、知の巨人(危口さん)から、この程度のことしか記憶にとどめていない俺の知性よ、と思います。だからこそ、残された言葉とかじゃなく、危口さんの立ち居振る舞いのそばにもう少しいたかったなあと思います。
 まあ、この言葉のおかげで、今のマンションでは、マンションの前を気持ちよく掃除できて、それをたまたま見かけたおばあちゃんが、大家さんに話して、大家さんが「あなたはしっかりしてるから。」と、マンションの屋上への鍵のありかを教えてくれました。危口さんのおかげです。

 「蟹と歩く」を作る過程で危口さんのことを知れて本当に良かった。ありきたりだけれど惜しい人を亡くしたと思った。美しい人だったと思う。死んじゃったから神格化してるのかなとも思ってしまうけれど、なんか靴履いたまま部屋(危口さんの)に入っていったりしてガサツ!なんて思ったりしたけれど、本当に品がある人だったと今は思います。

〔雨ニモマケズ〕

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ影ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


 今、人と話したいことはあるけれど、筆が進まないって感じが(もうだいぶ進みだしたけど)、なんか演劇って、人が集まって完成するのっていいなって実感しました。どうしたって今回は危口さんの死があったから特別な環境ではあったけど。


 危口さんは人を傷つけないようにすごく注意をしていた人だと聞きました。歌舞伎町の百人斬りが全然人が集まってないらしいって聞いて、終電がない時間なのに僕と文美さんに「危口さんが困ってるなら斬られに行くか!」って思わせるって、危口さんの人徳だよなあって。そして、100人の人物相関図を考えて用意して、全員に配り、ちゃんと配役するという筋の通し方。
「武器と衣装、期待してます。」と言われたのに、期待はずれな石だけを持って行った僕を斬る時の危口さんに愛を感じた。多分照れもありながらも、それを上回るバカバカしいことが好きで本当に楽しんでやっている感で、一瞬期待はずれの石に戸惑いながら「俺の頭をその石で殴ってくれ、、」と目で訴えてくる危口さんの感じが印象的でした。うろ覚えだから、実際どうだったかは覚えてないけど。最後に「また逢う日まで」を全然声出てないけど、本当に楽しそうに歌ってて、来て良かったと思いつつ、すごくジェラシーを感じたのは覚えてる。

2016/10/15 25:00




今回僕は、ここに参加するか、手を挙げるべきか、挙げていいのか本当に迷った。
最初に危口さんが癌だと連絡が来た時、突然すぎてどーんてなって、そのあと悪魔のしるしに出たかったのに叶わなかった。と思った。次の日、危口さんの家に会いに行き、快快で、時間を合わせて行くことになっていたんだけれど、僕はバイクで少し早く着いてしまい、なんと声をかけていいのかわからず、一人で入れず家の前をウロウロしていた。結局意を決して入ったら、悪魔のしるしメンバーの神尾くんがボードゲームを広げていた。なんかホッとしたけど、今思えば神尾くんもなんて声をかけたらとか思って、ボードゲームだったのかなあなんて思うけど。 一通りみんなが聞くような病気のことを聞いて、「こーじくんは今何してるの?」って聞かれて「KAATでルーツ、ストレートプレイやってます。」って言ったら、「ストレートプレイって何?」って聞かれて、何かいちいち危口さんの言葉を重く受け止めてしまい、答えられなかった。 なんとなく早ければ余命3か月みたいなことも聞いていたから、もしかしたらこれが最後になるかもなんて思ったらなかなか帰れなくて、最後に危口さんが見送ってくれて、握手して、「もし倉敷で何かやるようだったら行くから。」と言って帰った。本当は、そこは、「出るから。」と言いたかったけど、何かニュアンスをお客さんとして、みたいにしてしまったことを後悔した。

 そのあと3月頭に、倉敷で危口「お楽しみ会」が企画されてたから、そこで何か快快でできたらということだったけれど、結局それは無くなって。危口さんの新作を、お客さんとして観に行くことになるのかあってもやもやしていた。

 2月、快快で「CATFISH」に向けてクラスカでリハをしている時に、危口さんが本番を観に来れないから、とリハーサルに来てくれた。その前までは本番を観たいって言ってるって聞いて、快快の中では「あいつチケット取れてねーだろー、観にくるのはいいけどチケット持ってますか?って聞こうか(笑)」とか盛り上がってた。弟さん、妹さん、悪魔のしるしのたくまさんとお子さんが同行していた。でも、その日はスイートルームにお客さんがいたため、リハはできず結局みんなでお茶をした。でも写真見てやっぱ無理してたんだなと思った。



 頻繁に連絡を取り合う仲でもなく、疒日記を見ていただけなので、というかそんなに頻繁にチェックしていたわけでもなく、ふと思い出したらチェックするという感じくらいだったし(日記にカンパもしてない)、最後に引越しの時に会って以来、病が進行していることは確実だったし、会うまでドキドキした。どんな顔してあったらいいのか、何を話せるのか。まあ会ってみたら、あれ?ってくらい車椅子であること以外見た目が11月と変わらず、やつれてもいなくて良かったと思った。体を貸してあげれば何とか自分で歩ける程度だった。支えた体はがっちりしていて、安心した。っていうのと、多分1分もその時間はなかったと思うんだけど、自分が危口さんの体を支えることになるなんて、というか、すごくその関係性に違和感を感じ、切なくなったのを覚えている。

 「この前、危口さんのすっごい使いづらいというかロースペックなインパクトを借りましたよ、こんな使いにくいやつで危口さんは今まで乗り切ってきたのか、愚直だなって思って、インパクトに危口さんを感じました。」みたいな話から、「あれは、ドリルで、インパクトじゃない。」ってなって、インパクトとドリルの違いの話になって、僕が腑に落ちなくて食い下がっていたら「だったら自分の体にドリルとインパクトを当ててみたらいい。」と言われて、勝手にイメージできぐちボイスに死を覚悟した人のドスを聞かせてしまい、「怖いわ、、」って言って、自分が病人扱いを、哀れみを、なるべく出さないように明るくバカを振舞っていることがばれたような気がした。そしたらそれを見抜いてか、もともとそんなつもりもなかったのか、「まあ痛いからインパクトの先っちょになんか消しゴム的なやつ付けて。」的なことを危口さんは言ってた。そのあとはセリフ覚えなきゃやばいってなって、別テーブルで役者陣はセリフ合わせしててあんまり話せずさようならって感じだったかな。 帰り際「こーじくん、3月暇してるの?連絡するかも」と言われて、嬉しかった。
けど結局危口さんからは連絡がないまま、「CAT FISH」が終わって、受付に置いてあった蟹と歩くの仮チラシにあった「出演 八木光太郎 他」の、他に俺は入るんだろうか?なんてなんとなく連絡を待っていた。 クラスカで話している時、八木くんは危口さんが癌だと知った時、電話してきて「作品つくるなら俺を出せ」と言ってきたと聞いた。そういうところが八木くんのいいところだと言っていた。人から聞く八木くんの言葉は大体荒々しいから、そういう男だと思っていたけれど、今回一緒にやってみて、きっと敬語だったんだろうと思った。今の危口さんは体力落ちてるし、きっとそんな風に躊躇なく言える人としかできないよなと思った。

 「CAT FISH」で、役者として遺恨を残していたこともあり、作品では、「もやもやしてるやつがいっちばん嫌いなんだよ、生きてるだけで最高なんだよ!」的なことを梨乃さんが言っていたけれど、終わった後もやもやしていて、こんなやつが参加したら危口さん困るよな、、ってのもあった。

 そのあと、文美さんの餅つきに、八木くんが来てくれて、何となく、悪魔のしるしってどんな感じで作品をつくるか聞いた。八木くんが「連絡するのいいと思いますよ。」って言ってくれたけど、なんか連絡できなかった。

 もやもやを抱えたまま、実家に帰り、幼馴染に相談したり、最後には姉にまで相談して、結局みんなに「後悔するくらいなら連絡しなよ。」と言われたものの決められずにいた。 そうこう連絡がなんとなくできないうちに、気づけば疒日記は更新されて、利き手の自由がきかなくなっていることを知り、さらに連絡しづらくなっていった。

自分を迷わせていたのは、・もやもやした俺が、もう死にたいなんて言っている人の作品で何かできるのか?心労をかけ、体力を奪うだけじゃないか・危口さんの癌を(死と向き合う切実さを)利用して、自分のもやもや、スランプを吹き飛ばそうとしてるだけなんじゃないか・癌家系であることもあり、癌とちゃんと向き合って考えたいが、これは危口さんの癌を盗むことだろうか(今まで何度か癌と向き合わないといけないことはあったが、結局「ブラックジャックによろしく」の癌編を読み、涙を流してスッキリして、何か解決したのかわからないがそこで考えるのをやめるということを何度か繰り返していた。)・単純に俳優としてのスケジュールが真っ白なのが怖いだけじゃないか・俺は危口さんのセゾンの助成金を狙うただのハイエナなんじゃないか

みたいにわけわかんなくなって、迷いに迷って、結局は自分が後悔しないようにと自分本位にメールを送った。悪魔のしるしのメールではなく、危口さんのiphoneのアドレスに送って、返信を待っている間、あ、もうiphoneとか操作できないのかも、本当に自分本位で想像力欠如、なんで悪魔の方に送らなかったんだろうなんて、後悔しつつ、でもこれで誰にも読まれないまま何もなかったことにしようかなと思っていたら、翌日危口さんが返信をくれて、そのメールが、改行とかがないことで、危口さんの今の状態を何となく察し、そして、今考えれば危口さんとしては当たり前の行動だけど真摯に言葉を返してくれたことをすごくありがたく思った。

 数日後に改めて危口さんから、「作・演出」という肩書きから外れて、危口さんの原案を、集まった面子でどうにか上演作品にすることになるけどそれでもいいですか?という旨の連絡をもらって、参加することに決めた。
 けど、原案がどんなものかもわからないし何か栄養をもらわないと作れないので、無責任でいいので、何か参考テキストが欲しいと言ったら、宮沢賢治いくつかと、銀河鉄道の夜のアニメリンクを送ってくれて、「最近、ジョジョのアニメの音声をラジオみたく聴きながら寝てるんでアニメ嬉しいっすー」って猿公なレスをして、既読になって終わりって、これが個人的な最後のやり取りになるなんて思いもしなかった。

春と修羅 (mental sketch modified)


心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路めぢをかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃せいはりの風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素エーテルを吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ


 顔合わせをして、稽古初日の前日、背中を痛めて苦しすぎて夜中も寝つけず気づいたら危口さんが日記に書いていた痛みが和らぐ姿勢を取っていて、救急で病院に行った。



朝方まで色々検査したけど、背中痛めたのと腸炎が重なったってことで、稽古初日はスカイプで参加。体が効かなくなったら俺終わりだなって思ってたのに、早々に来ちゃったよと、今回本当に何もできないんじゃないかと不安になり、次の日からの稽古もずっと横になりながら見ていて、本当に自分が無力で役立たず感がやばかった。

何か、ただの日記になっちゃってるので、さらっと。

 で、危口さんが亡くなったことを聞き、結局会えず、作品の事は直接意見を交わすことはできず、何も危口さんにかける言葉も見つけられないままでお別れになってしまった。危口さんが亡くなったことで、タイミングのずれた予約者へのご案内発送作業で、一枚一枚ラベルを貼り、全員の名前を確認した。ああ、この人が来るんだとか、僕の知っている範囲でも確実に僕よりも濃密に危口さんとの時間を過ごした人の名前を見つけては、プレッシャーを感じていた。

 あと山縣太一くんが、「自分にカメラを向けないで、彼に光をだよ」みたいなことをアップしてのを見て、確かに!と思うと同時に、散々自分のことばっかりでやってきたから、ほんと何ができるんだろうってなりました。

 で、同行者の筒井さん、荒木さんが撮った危口インタビューを聞いていたら、「反知性のコージくんが何をするのか、全然ダメだったら、もうちょっとものを考えろと笑ってやります」みたいなことを言ってて、何を期待していたんだろうなんて思ったり。唯一危口さんとしっかり絡んだ「ALL APOLOGIES」の時のようなことかなあなんて想像したり。



でも実際はわからないので、紆余曲折しながらやりたいことをやらせてもらいました。それを許容してくれた同行者の方々に感謝。

 石井ゆかり曰く、3/20〜26の乙女座は

何を怖がるか、何をリスクととるか
ということが、今
あなたの世界で変化しつつあるのだろうと思います。
本当に怖いことはなんなのか
ということを直視したとき
今まで固めていた守りをむしろ、ゆるめたほうがよい
ということに
卒然として気づかされるかもしれません。

こんな感じだったのと、舞台監督のさめちゃんに、「こーじは全部自分でやりたいんだろうけど」、と言われて気付いて、今回は人を信用して、任せて、一緒にやることができました。危口さんっていう男を信頼して集まった同行者だったから、なんとか壊れずできたと思います。( ALL APOROGIESの時に、男に囲まれて、嬉々として猪木のモノマネをしている危口さんにすごく男ノリを感じて、普段は快快で女ノリなので、恐怖を感じたのをすごく記憶している)

二週間悩まされた腹痛が公演後に消えて、ほんと人の死って重いわって体感しました。

当たり前だけど、人の数だけそれぞれの危口さんとの関係があったろうから、感想も様々だろうけど、僕は僕と危口さんとの関係で、思いでやりました。
でも僕が一番視線を緊張する、同行者の卓磨さんで、なんか危口さんの古くからの親友で仲間って感じがしたから、この人の爆笑が見れないと今回は遺恨を残すって思って、打ち上げの席で卓磨さんの正面に座れるって思えて座れたので、自分としては良かったんだと思えました。ちなみにこの二週間で僕が一番泣いたのは、たくまさんが急に森山直太郎の「さくら」をピアノで弾いた時でした。

追記 今回の同行中、常に僕の冷静な相談役でいてくれた、悪魔のしるし岡村滝尾さん。夢で危口さんに渋々ながら今回百人斬りをやるオッケーもらって短い竹刀を託されて、東京からは実際の百人斬りの刀が届く中、最後にその案を成仏させてくれたのは滝尾さんでした。初日を終えて、俳優にもかかわらず明日繰り返すことが怖いと言っていた僕の相談にも乗ってくれ、初心に立ち戻らせてくれた滝尾さん。去年SPACのバスでたまたま隣になって話した時にはこんな関係になるとは思っていませんでした。ビバ滝尾!

悪魔のしるし、素敵でした。チームってやっぱりいい!と思った。そして快快に関しても今回そう思った。危口一家が本当に皆、魅力的で、素敵でした。
最後に妹さんに「兄が、快快は観たらいいと言っていたので今度観ますね。」と言われてすごく嬉しかった。


Black Sabbath  Symptom of the Universe 悪魔のしるし



                               
また逢う日まで 最初の5秒間くらいの振る舞いが好き そこに危口さんを感じる



一ヶ月前に実家で種を蒔いた野菜が、芽吹いてました。



















庭の桜はもうすぐ咲きそう。この時期になると、鈴木志郎康さんが「桜の木は、今の時期は、幹や枝も桜色になってくるんだ」と講義で言っていたのを思い出します。

  



最後に「蟹と歩く記録集(仮)」よろしくお願いします。

(諸事情によりお申込み受付開始は来週あたりになりそうです。下記サイトで情報が更新されますので引き続きよろしくお願い致します。)


https://walkingwithcancers.tumblr.com









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