2012年2月1日水曜日

SUPER LONG CHAT→→→アントンの作り方、考え方編

演出家篠田千明、ドラマトゥルグSebastian Breu、作曲家安野太郎によるskypeチャット。
今回は『アントン』の制作プロセスを巡り、様々な寄り道も含めたトークで、「演劇の稽古場」のフインキをみなさんとシェアしたいと思います。

Sebastian Breu→SEBA

篠田千明→SHINODA
安野太郎→POINO





以下、思想のネタバレ注意、だだだ~~ん!!!
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SEBA:   今回の『アントン、猫、クリ』はポリフォニー劇ってよばれてるんだけど、音楽用語のポリフォニーと、快快がやっているポリフォニーと、やっぱり文脈がちがうかなと感じた。音楽でいうと、ポリフォニーは複数の異なる声が協和(もしくは不協和)しあってるってことだけど、『アントン』では「声」も、「身体」もあるわけだね。

SHINODA: そーだね、ポリフォニーって単語がでてきた前に、身体と声と言葉での演出がきまってて、ポイノがポリフォニーって言い出して、おお、なんかいいかも、そーかも!!と思って、ポリフォニー劇ってつかいだした。最初にこの単語聞いた時はどんな風に思ったw?

SEBA:まぁ、僕も音楽やってて、思考も方法論もある程度そっち系のことばに影響されているんだけど、ポリフォニーって聞いてまず思ったのは、じゃー、舞台の上、色んなことが同時におこって、同時に進行するかんじじゃないかと。漠然としたイメージしかなかった。だが、去年のフェスティバル/トーキョーで『This is faifai.tv』でポイノさんとコラボして、youtubeでポイノさんの作品も見た時に、そのイメージにだんだん形もついてきたと思う。しのだの解釈もまず聞きたいんだけど。

SHINODA: なんか、ポイノが、ボヘミアンラプソディに聴こえたってゆって

SEBA: ボヘミアンラプソディが何に聞こえた?

SHINODA: アントンの練習聞いてたらw

SEBA: まじかよw

SEBA: bismillah no!

SEBA: we will not let you go!

SEBA: let me go!

SEBA: no!

SHINODA: あーあーあーあー

SEBA: da da da da da

SEBA: o mamma mia

SHINODA: まんまみーあ~

SEBA: beelzebub has a devil put aside for meeee

SEBA: ふぁーみー

SHINODA: なんか、

SEBA: w

SHINODA: ポイノ的には

SEBA: ええ

SHINODA: あの、アカペラからピアノがはいって、

SHINODA: まま~てくるフレディとこーじが重なって、さらにプッチーニのラ・ボエームにもかさなり、rentにもかさなったらしい。よーわからんw

SEBA: w

SHINODA: で、今は、ボヘミアンラプソディーの構成を意識しながらなんかつくってみてるw

SEBA: おもろいな。僕はポリフォニーって聞いたらまずバッハってイメージがあるんだけど

SHINODA: バッハのポリフォニーっていうより、最初は映像のタイムラインみたいな事でつくってたんだけど、それをまとめていく過程で、結局、映像だと、いくつもタイムラインはできたとしても、いっぽんにしなきゃいけないでしょ?

SEBA: そうだね。

SHINODA: でも、それを同時に存在させられないかなって。時間を一方通行にしないで、同時多発的な時間軸。それも過去から未来へ、だけでなく、未来から過去へとか、

SEBA: なるほど、やっぱり同じことで悩んでるね。

SHINODA: そういう多層的に時間軸をならべること、っていうのが、しのだの最初にかんがえてたイメージと、ポリフォニーって言葉をもらって、しっくりきたイメージ、かな。

SEBA: うん、わかる。monoとpolyの違いってね、古典ギリシャ語で単数と複数の違いで、例えば小説の場合、文字の順番も決まってるし、ひとつの「流れ」、ひとつの「順番」しかないけど、音楽はそれとちがって、複数の声を積み重ねることができる。演劇もまた同じようなことができるけど、大抵の演劇は「文学的」に考える。中心的なひとつのアクションがあって、観客の注目はそこのみに集まる。monoになっちゃうわけだ。

SHINODA: 時間を一方通行にしないで、同時多発的な時間軸、って部分にもどると、そこからはじまって、今は、そのちがう時間軸が「ひびきあう」のほうに注目してつくっているよ

SEBA: 響き合いはすなわち、フォニーのことだね、うん。結局、お客さんの目と耳は同時多発といっても、ひとつの「流れ」を意識するよね?

SHINODA: そこが悩みどころだね。でも、大きく流れは猫をめぐるはなし、としてあるんだけど、後半はけっこうその流れから一見一致して見えないとこもある。

SEBA: 『芝浜』の時に思ったことだけど、一人がプロセスできる量の視聴データを超えてるところ結構あるね。でもそこがいいところかもしれない。

SHINODA: アンナ(注釈:劇場HAUのキュレーター)にもいわれた。

SEBA: 大きな群像劇もそうだけど、舞台上、ひとつの出来事に集中させない劇って今までも少ないわけだね。チェルフィッチュだと、若干そーゆーのあると思うけど、身体の動きと、台詞と、この二つの要素をあえて一致させないってやり方ね。つまり、身体を台詞から解放する、ってかんじ?アントンのリハをみて、こーじがいろんなすごいことをやってて、解放されてるなって思った。

SHINODA: 体が解放ってより、あれはね、作り方がある。

SEBA: 振り付け?

SHINODA: うーん、まあ、そんなような物だけど、例えば、部屋の中を移動するっていう動作だったら、それを実際の距離をさぼりながら、さぼった分を体と言葉で補完するっていうやりかた。言葉じゃむずかしいかな。

SEBA: や、でも台本を読むと、水水水水水水水水水、みたいなのがでてきて、現代詩も同じようなことをやってるんじゃないかって思った。ある風景を描写するってより、まぁ、結果としては描写するんだけど、手段はかなりちがう。詳細に描かず、リアリズムもつかわず、いわばJoyceの「意識の流れ」みたいなかんじになることがあるよね。

SHINODA: stream of consciousness

SEBA: そう。でも演劇ってのは、台本がただ一面で、パフォーマンスもあるからね。そのstream of consciousnessをどうやって舞台で再現するか、そこが面白い。

SHINODA: にゃるほど!!

SEBA: 役者の身体がテキストになって、テキストが身体になる。さき言ってた、「さぼり」なんだけど、そのさぼりを体と言葉で補完するかんじは、stream of consciousnessの読者も同じようなそれをやってて、stream of consciousnessの「外」にある環境を補完してるんじゃないかと。

SHINODA: ほほ~う、なんか、言葉っておもしろい!!!

SEBA: だよね。でもアントンは言葉以上に風景がつくれるんじゃないかな。言葉と身体の重ね方っていうか‥

なんかね、三つの中心的なことを発見したけど、
1 身体
2 言葉
3 テキスト(字幕)
(順番適当)
そこから生まれる同時性ってのも或る意味でのポリフォニーじゃないかなって。


(POINOさんがチャットに参加しました)


SEBA: 前、勝手にいろいろ話して、ぽいのさんの解釈はまだ聞いてないのでそこからスタートしたいんだけど、

POINO: ”ポリフォニー” は。今日も快快のインタビューで聞かないでくれって言ったんだけど、それは、メールでの話に出てくる、結局は映像みたいに、一つの方向からしか見ないからって部分なんです。お客さんの目と耳は同時多発といっても、ひとつの「流れ」を意識するよね?って話。モノフォニー、でもホモフォニーでもないから、一番近いのはポリフォニーだと思うぐらいの意識だったか最後は。最後は× 最初は◯。でも、ポリフォニー劇ってことでいいと思うよ。

SEBA: うん、例えばね、『this is faifai.tv』をやった時に、数人かが舞台の上で坐ってて同時にいろんな発言するって構造あったよね。で、そのことばがつくる響きあいの共同作用っていうか、その積み重ねたかんじの音にリズムが生まれたね?

POINO: はい

SEBA: それを見た時に、ポリフォニーってこーゆーものかなって思った。音楽の概念を「劇」に適用して、人間を「楽器」のように位置づけるような。で、同時にいろんな声がでてきて、でも言語は記号としての機能を失い、音楽化していくっていうふうにかんじた、あの時。

POINO: アントン猫クリは、その方向性がグッと強く前面に出てると思います。

SHINODA: グッと!!

SEBA: 好きなレコードを聴く時に、なんか、歌詞のことばに不思議な感覚があるんだけど、ふつうの、日常的な言葉なのに、オーラみたいなのがかんじる。詩を読む時もまた、そーゆー不思議な感覚がある。進化論の一説だけど、言葉以前に、音楽(のようなもの)でコミュニケーションが行われてたって。今の詩や歌は、そっちのほうに近づくこともあるんじゃないかなって思って。

POINO: なるほど

SEBA: 特にリズム感はすごく大事。アントンの台本、今翻訳しているところだけど、これもまたリズムと、言葉の「表面」にある感覚をすごく感じさせるね。

POINO: これから作っていく、第三部の部分だけど、言葉がどんどん音楽の方に近づくようなことできるかなとか思っていて色々考えたけど、結局、スティーブ・ライヒのパクりになっちゃいそうで、なかなか新しい方向性がでてきていない。


SHINODA: ww

SEBA: スティーブ・ライヒとは違う方向性ね‥ Different Trainsってやつ、列車の音をそのまま録音してカットして曲に入れるの?

POINO: 録音していれてるけど、列車の音を、弦楽四重奏にオーケストレーションしていて、重ねているよ。

SEBA: だよね。ウィーン西駅の近くに住んだことがあるんだけど、電車が発車する時に、その軋みが妙な音階をつくってたw だんだん上がっていくような。

POINO: あるある。

SHINODA: あるある、なんだw

POINO: こっちでも、電車の車両同士の軋みが女の喘ぎ声に聴こえる。

SHINODA: ぽいのw

SEBA: あるねw

POINO: っはぁんて聴こえる。

SHINODA: ぽいの、、、

SEBA: 眠い時、その現象は強化するw

SHINODA: またどんびきされるよw

POINO: ぅう~んとか。

SHINODA: あるある、なんだwww

POINO: あるあるだよ。

SEBA: 妙に女性二人に聞こえるけどね

SHINODA: せばwww 

POINO: ライヒかっちょいいし、方向性としても間違ってはないと思うけど、まんまパクリになっちゃいそうで、「影響うけた」「参考にした」ぐらいだったらいいと思ってるんだけどね。

SEBA: うん、わかるね

POINO: 物語の方向性は、もう決まってるから、物語に接続する手法をどんな方向性にするかってことですかね。ネコどうなって、どうなるってのはもう決まってるから、どうやってそこまでをコンポジションするかっていう。

SHINODA: ふむふむ

SEBA: なるほどね。もうちょっとポイノの話が聞きたいんだけど、一般的に、アントンでのcompositionのやりかたとか。

POINO: 方法論は、例えば、猫が消えるソングというのがあるんだけど、複数のまったく違う会話のテキストを、別の時間軸でパフォーマーに発話させて、テキスト中の名詞の部分を縦に重ねている。2つ以上の名詞が重なるときは、片方の名詞がミュートされる。会話には”猫”っていう名詞が出てくるので、猫って名詞がミュートされるので、「猫が消えるソング」

SEBA: 猫が消えちゃうね、ことばの森の中

SHINODA: するっとね

POINO: 猫が消えるソング以降は、旋律と伴奏を分けてる。なんか、西洋音楽の進化をなぞってる感じだね。バロックから、古典派にいきましたみたいな感じ。

SHINODA: へえ~

SEBA: 僕、バロックとか、古典派だと、漠然としたイメージしかないかもだけど、リハをみて、なんとなくわかる気がした

POINO: うん

SEBA: 『芝浜』の時も、「再生」とか「ループ」とかいう、DJ的なあれがあったけれど、今回の作品は考え方自体や、台詞の並べ方も音楽的になっているのかね?

POINO: うん。そうだと思うよ。

SEBA: 前は比喩的にループとか言ってたけど、今回は比喩じゃない。ポイノが前のインタビューの時にも言ってたけど、今回のコンセプトは劇のBGMとかじゃなく、物語と密接な関係にある手法が中心的で、それは、ミュージカルとはちがうし、オペラでもない新たなつながり方で、「台本に書いた台詞」と「舞台で発話する台詞」の間に、もうひとつの段階が入ってるかんじ?つまり、そこは作曲家が扱う領域、というふうに解釈したんだけど

POINO: なるほど。

SEBA: アントンって原作もあったよね?

POINO: ううん、しのだの体験をもとにしてる。

SEBA: 駒場でやったものは?

POINO: あ、初演ね

SEBA: それそれ

POINO: それはあるけど

SEBA: その時は、コンポースする段階って入ってなかった?

POINO: なかったよ。もっと単純だった。

SEBA: そう考えると、台本は一応あって、でも台本をそのまま舞台で再現するわけじゃない、今回の。セリフを音楽のように扱おうってレベルがその間に入る。ちなみに快快って演劇なのかって話がたまにあるんだけど、今回のアントンもまた、さき言ってた、ミュージカルとはちがうし、オペラでもない‥

POINO: ファイファイは、作品によって立ち位置変わって、フットワーク軽いよね。

SEBA: うん、僕もそう思う。アントンも一般的なカテゴライズに回収できないなって。

POINO: 舞台芸術って意味では演劇だとおもうけど、芝浜は、エンタメよりで、アントンはアート寄りみたいな。

SEBA: そうだね。台本を見てもわかる、そーゆーの。でも「演劇」とか、カテゴライズそのものはね、人間だけじゃなく、生き物って基本、複雑性を縮減する傾向にあると思うんだけど、いわゆる島宇宙の中、コミュニケーションをとりやすくするために「オペラ」とか、「演劇」とか言って、なるほど、今この島にいるんだっていう。

SHINODA: 複雑性の縮減にもかかわってるんだけど、伴奏と主旋律にわかれてきた、みたいなはなしがあったじゃん。でさ、基本、自然科学は、17世紀からこっち、現象を解明しよう、みたいなことですすんでて、そーゆーことでいうと、音楽ってのはどーいうモチベーションで展開してきてるのかな、近代から現代にかけて。

SEBA: 封建制社会から、ブルジョア社会への変遷は大きな影響があったかな。アーティストの社会的位置が変わるし(ヨーロッパはね)。前は主君の言いなりでやってて、後はだんだん自営業みたいなかんじになっていく。

SHINODA: なんか、手法として、とにかくやりつくして、やることなくなったから、違うことやって、っていうのだと、飽和しちゃわないかなって

SEBA: 飽和ね。なんかね、色んな時計、色んな時間が同時に存在するとしたら「政治」の時計よりも「アート」の時計がはやくまわってる気がする。概念は廃棄される、ちがう概念はとりあげられる。でも基本的には、今の僕らでも、 生きてる社会になんとなく影響されてると思うね……またズレた話してもたか。

SHINODA: やはり、ドラマツルギーと音楽的展開が合わさってるってとこがポイント。

SEBA: ハイブリッドだね、アントン。テキストの話に戻るけど、それってやっぱり、誰か影響を受けた作家とかいたの?

SHINODA: 今回の???

SEBA: そう。

SHINODA: 文体として??

SEBA: そうそう、文体自体。

SHINODA: うーん、それは作家じゃなくて、完全に、音楽映画からくるながれで、それに役者の身体性でもって言葉を選別してリズムをつくって並べた、みたいなことかな。あれは、ぜんぶ、役者の人がその場で書いてるていうかゆってるのをあとでテキストにおこしてもらってる

SEBA: 録音?

SHINODA: ううん、本人に書いてもらってるよ

SEBA: ってことは、『アントン』だけじゃなく、 快快って基本的にPOLYだねw

SHINODA: まーねw

SEBA: 中心的な、リーダー的な人物がいないわけね?

SHINODA: そんなこともないけど、今回のテキストだと、パフォーマーに由来してる。中心的な人がいるってより、つかう「舞台芸術」と、みる「舞台芸術」のちがいでシノダはつかう派だから、そこにどんな人が参加するのか、どういう働き方をするのか、っていうのをまずふまえる。

SEBA: 舞台芸術の内的社会性だね。

SHINODA: うん、つかう「演劇」のわかりやすい例は、

SEBA: 『SHIBAHAMA』?

SHINODA: こどものごっこ遊び。

SEBA: なるほどね。

SHINODA: 『SHIBAHAMA』は使う部分で構成を作って、見る部分にする、という感じだったよね

SEBA: そう、フィールドワークのことだね

SHINODA: で、今回は演奏方法として、「つかう」というところ。

SEBA: うん、例えば2部は、トークするわけでしょ?いろんな文脈の人を集めて。

SHINODA: うん

SEBA: 「観賞する演劇」よりも知的なチャレンジが待ってるんじゃないかと思うよ。芝浜もチャレンジしてるし。観て、そうかって思って帰るってより、やってる人との交流もできる。

SHINODA: 鑑賞するものも、それなりにいい面はあるけどね、だから第一部で帰る人もマア、いるかも、とも思う。

SEBA: まあね

SHINODA: アントンは、しばはまより作品としてただ鑑賞できる立場も留保したかったってのもあっての2部構成

SEBA: ふむふむ、なるほど。台本の話にもどちゃっていいかな?

SHINODA: いいよー

SEBA: なんかね、思ったんだけどね、こないだ言ってたStream of Consciousnessってのは、頭の中の世界っていうか、その意識の底に絶え間なくながれている「もの」を掘り出し、文章で再現する試みだけど、さきの話を聞いて、そして台本もよんで、これはまたちがう方向性もあるな、とかんじた。

SHINODA: どんなどんな?

SEBA: 「街路樹/紫のニッカポッカ/黄色いヘルメット」のような、詩に近い部分もあるし。精神分析的なあれじゃなく、樹とニッカポッカとメットの色がすぐ飛んでくるよね。てのは、潜在意識より、「目の前」でおきてることが描かれて、その目がカメラになって、ある登場人物の動きを追っていくかんじ。意識の流れを追って行くけど。

SHINODA: あのシーンは、意識の流れ+視点の移動をガイドラインにしてつくってる。

SEBA: そうね。

SHINODA: だから意識の流れの中で、あ、水たまりにあしつっこんじゃったって意識がでてくるとどうじに、いくつもの視点がそこにでてくる(水はねる、よける、黄色い傘)。最初のシーンだよね、セバが主に言ってるのって。

SEBA: そうだね、対話もでてくるし、後で。

SHINODA: テキスト上では別に普通の会話。動画のリンク、おくんなかったけ???

SEBA: あ、みたみた。テキスト以上に面白いね、やっぱりそれ。動きもシンクロするし、声もシンクロする

SHINODA: でも、あれは、そーゆー意識の流れ的なことでは、ぱっとみないでしょ??

SEBA: うん、何がちがうかっていうと、昔の「意識の流れ」はね、あるひとつの主体の流れで、ずっとそのままながれていくんだけど、アントンは色んな意味でPOLYだから、意識も分解してるっていうか、複数の主体性がかんじられる。アントンをみて、(文学系の僕は)Joyceとか『水晶幻想』の時代の川端康成を連想したんだけど、音楽系のポイノはプッチーニとか、クイーンだったよね。そーゆーハイブリッドだからこそ、色んな人に楽しんでいただけるといいな、と思う。

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